3)上野の美術館
いつだったか上野公園の国立博物館の帰り道、近くの美術館で何かの展覧会が開催されておりましたので、題名もよく見ないままチケットもそのままポケットに突っ込んで入館したことがありました。
そしていつもの美術館見学の私の様式ですが、最初から順番に作品とひとつずつお話していくとなかなか最後まで集中力が続かないので、最初のあいさつ文すらも読まずに、まずは最後までひと通り早足で作品を通して見ることにしています。
そして、頭に残った作品を好きな順に飽きるまで見ていきます。最後に、最初のあいさつ文を読むこともあるかもしれません。
もうなんの作品だったかも忘れましたが、帰りの電車の中でチケットの半券を見た時に、そこに印刷されていた作品が、私の一番記憶に残った作品と同じだったことがありました。(平凡な私。)
これまた、どこかの美術館のひと部屋で開催されていた最新気鋭のぶっ飛んだ現代芸術展での話です。
朝一番に入っていった時の事でした。学芸員さんがまだ、ばたばたとしているような状況でした。
そこに、スポットライトに照らされた何も入っていないアクリルケースがありました。
極小のアートなのかと中をよーく見てみましたが、たぶん何も入っていません(あれは糸くず?)。展示が間に合わずこれからの搬入なのでしょうか。それとも、何もないというのがこのアートの表現なのでしょうか。答えはわからないままです。
この空のアクリルケースの前で、どんな顔をして覗いたらいいかと顔作りに苦心したという思い出です。
あそこにいた学芸員のおねーさんは私の事をどう思っていたのでしょうかね。「そこ、まだ何も入っていませんよ」だったら、ちょっと恥ずかしい。
4)近代アートの個人的感想
近代アートの絵画に突拍子もないものがあります。
今日のような絵画の歴史は意外と新しく、当初画材は贅沢品だったので、布教のための宗教画としてと、貴族の自画像の写真として始まりました。
最初は写実技術の腕比べだったのでしょうが、100年200年と経って技術が完成されていくと、だんだんと狂気の表現となっていきます。
狂気とは、市井の人が「わからなくはないが、私にはこんなことはできないわ」というところの共感や感動をいいます。
近代アートの絵画を見に行くと、巨大なキャンバス一面に白にせよ茶色にせよ、実物を目の前にするとちゃんと一筆ずつ絵の具が塗ってあるのです。
まずはその狂気に圧倒されます。
この製作の1960年代、今と違うのは物質の豊かさとコンピューターです。
当時はまだ物を大切にする時代でしたし、制作前に気軽に手直しのきくコンピューターはありませんでした。
そんな時代に、これらを作成する勇気と根性に狂気を感じるのです。
学校で先生の言う通りを答案用紙に書くことを求められ、携帯で即座に何でも教えてくれる今日で、答えのわからないものに出会った時の戸惑い、それが、
近代アートの楽しみ方です。
すべての作品に感動しなければならないではなく、それを目の前にしたとき自分の脳が反応した作品が、
「私のアート」です。
