今年、還暦の60歳になる。
100年という長さを1mと置き換えて考えてみると、60cmの物差しを持ったということになる。すると1m(100年)がどんなものか、すこし想像のつく範囲になってきた。
そして20歳のあの頃、100年どころか50年も想像つかなかったなあと、納得もするのである。
100年前を、“大昔のこと”とするか、“そんな昔のことではない”とするとかの違いである。30年前の事などついこの間の事と思っているのだが、当然のごとく20歳の娘と話はまるっきりかみ合わなないのである。
人は自分の生まれた前の事はみな同じに、“昔のこと”とひとくくりにする。今の時代の人にとって、聖徳太子も秀吉もペリーもみな同じ“歴史上の人物”。
しかしペリーぐらいになってくると、ちょっとわかるように言い換えると、あの優しかったおばあちゃんが「ワタシの親戚のおじさんが『ペリーが来た時はびっくりした』なんて話してたわ」と言い出しかねないの計算となるのである(ちょっとあやしいけど)。
黒船来航なんてのは、還暦の私の守備範囲内の出来事だったのかということになるのである(ちょっとあやしいけど)。
そして今度は、長さでなくて量で置き換えてみる。
人類らしきものが歩きだして50万年。意志を持って人間らしい歴史が始まったギリシャ神話は5000年前。
どっちもピンとこないけど、これを50万円のうちの5000円と置き換えると、文明ってのも大したことないことを痛感する。(ちなみに私の還暦、さらに最後尾の60円。)
50万円のうちの49万円もの間、人間はずっと、のほほんと暮らしていたんだよなあと考えると、なんか反省しなきゃいけないことがあるような気がしてきたのである。(地球誕生は46億円)