2019年1月15日(火)

読んだ本の話

病気と寿命

“病気”と“寿命”は、ほぼ同義語のように使われていますが、
これらは似て非なるものです。

スマホの“電池”と“故障の関係と、同じ話です。
病気とは故障のことで、寿命とは電池残量のことです。
そういわれてみると、ちょっと違うものだと思いません?

人間の体も携帯も、ちょっとぐらい調子悪くても、電池が残っていれば何とか使っているというのが、現実です。
違うのは、人間の体は携帯とは違って新品交換という手はありませんので、“だましだまし何とか使っていく”が、基本です。

病院に行って早期発見・早期治療でああよかったという場合もあるのですが、
最近、テレビやマスコミを見ていると、それらがすこし“度が過ぎて”、
“不安をあおり気味の喧伝”と感じる場合が多くあります。

そんなのを毎日見せられていて、
神経質にこだわりすぎるようになったり、さらには病院に行かないことが罪悪感につながったりして、なんだかんだ余計なところで、
だんだん疲れてきてしまってる傾向にあるようにも思えるのです。

病気は、油断することなく神経質にならずにの、
兼ね合いが難しいところです。
健康な時に気の合う近所のお医者さんを探しておいて、
“いつでも気軽に立ち寄る”なんてスタンスが理想かなとも思います。


そして、もし治療を要するような病名がついてしまったならば、

まずは、
痛みや機能障害などの、日常生活での不快感や不自由を取り除く方法の模索を考えます。
そして次に、
それが放っておくと進行していくかどうかの観察をして、
していくようならば、その進行具合の確認をします。

そのあたりをはっきりさせてから、一旦落ち着いて、
お家でお風呂にのんびりつかっているときにでも、今後の方針をゆっくり考える、ということをされたらいいと思います。
その場で結論を出すということは、あおられて決断を迫られると同義語です。


電池の方は、
携帯は技術の進歩で、電池残量が精度よく表示されています。
しかし人間の電池残量にいたっては、これから先もおそらくわからないままでしょう。

そんなこんなで、
寿命はもう考えても仕方のないことだということと、
体は、常に完璧を求めるのではなくて、日常で痛くなくそこそこ使えていたらいいじゃんかと
立ち位置をもう一段階低くすると、毎日が楽になります。

…と、自分に言い聞かせています(笑。

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